ゆとりニートの日記

理系院卒⇛就職⇛1年で退社。ノースキルでノージョブなゆとり世代ニートの日記。

鬱々とした毎日を前向きに。中島らも の「その日の天使」に学ぶ生きるヒント。

お前は楽天家か厭世家かと聞かれたら、私は迷わず厭世家と答える。

悲観的なのにニートなんてやっているのかと言われそうだが、それは単に頭が抜けているのと労働者として働くのが無理すぎるだけだ。

 

いつから鬱々としていたかは覚えていないが、高校生の頃には一日一回はこのまま消えてなくなりたいとか溶けたい、いなくなりたいと思っていた。

大学生になり、自由に使える時間が増えるとこの気分は益々増長した。

真夜中に意味もなく部屋を歩き回ったり、ひとりで布団にくるまりながら叫び声を上げたり。深夜わけもなくサンダル寝間着姿で神社にいったり、自転車でコンビニにいくだけのつもりが気づいたら十数km見知らぬ場所を求めさまよっていたり。

若干奇行っぽいことをよくしていた。

  

そんな、わけもなく生きてるだけで辛い日々を送っている時に、中島らも氏のエッセイ「その日の天使」に出会った。

とりあえず引用してみる。

私と似たような感覚を持ってる人にはぜひ読んで欲しい。

「その日の天使」      
                             中島らも

その日の天使

死んでしまった ジム・モスリンの、

なんの詞だったのかは 忘れてしまったのだが、

そこにThe day’s divinity, the day’s angel” という言葉が出てくる。


英語に堪能でないので、おぼろげなのだが、

ぼくは こういう風に 受けとめている。


「その日の神性、その日の天使」


大笑いされるような誤訳であっても、別に かまいはしない。


一人の人間の一日には、必ず一人、

「その日の天使」がついている。


その天使は、日によって様々な容姿をもって現れる。

 

--------------中略--------------

 

心・技・体ともに絶好調のときは、これらの天使は、人には見えないようだ。


逆に、絶望的な気分に 落ちているときには、

この天使が一日に一人だけ さしつかわされていることに、よく気づく。


こんな事がないだろうか。


暗い気持ちになって、冗談でも"今自殺したら"などと 考えている時に、

とんでもない友人から電話が かかってくる。

あるいは、

ふと開いた画集か なにかの一葉によって救われるような事が。


それは その日の天使なのである。

 

出典:中島らも著「中島らも その日の天使」

 

今読んでも素敵なエッセイだ。

これを読んだときまず、らも氏の「大笑いされるような誤訳であっても、別に かまいはしない。」という一節に勇気づけられた。

「私は勝手にこう思っている」でいいんだと。不完全な自分をそのままを肯定されたような気がしたのだ。

なので、その後の内容もスッと自然に入ってきた。

 

その日の天使がいる。

確かに、消えてなくなりたい毎日を誤魔化し誤魔化し生きてこれたのは、誤魔化せるなにかがあるおかげなのかもしれないなと思えた。

これを読んでから、辛い時こそ

「おっ、今のが今日の天使だな」

と見つけられるようになった。

本当に何気ないことに救われる。

例えば、部屋を出たら空が綺麗だったとか、腐りきってるときに人から遊ぶお誘い受けたとか、部屋から昔なくした1000円札が出てきたとか、あらゆる些細な出来事に色がつき、視界が鮮やかになった気がした。

 

もしかしたら、自分も誰かのその日の天使になっているのかもしれないと思うと、「しょうがない、もう少しちゃんと生きてみるか」なんて思いも湧く。

 

楽しい時、上手くいってる時は「天使」の姿は見えないし、すっかり忘れていることもあるけど、私にとってらも氏の「その日の天使」は、「この人生の天使」のようなものだ。